経理マンでもFIREしたい

〜とあるアラフィフ経理マンの早期退職を目指す日常〜

平凡の偉大さ

今まで私は自分のことを「平凡」と何度も記載しておりますが、これは決して自身を卑下して言っているわけではありません。今回は私が「平凡」であることをどのように考えているかを記載したいと思います。

私も嫁さんも一般的な家庭で育ったと思います。私の両親も嫁さんの両親も普通の、平凡な範囲の方々だと思います。

私の両親は仲はあまりよろしくなく、喧嘩している時間のほうが長いのではないか、と思うほどでした。共働きで、子供の教育費を確保しながら家の借金を必死に返し、余裕ができた定年後は方々に海外旅行に行き、体が徐々に弱ってきた昨今は、不都合と戦いながら老後を過ごしているようです。私の母親は所謂「教育ママ」で、父親の給与がそれほど高くなかったようだったので、私たち兄弟(兄がおります)は給料の高い良い会社に入るために良い大学へ、良い大学へ入るために良い高校に、ということで中学生以降は勉強に打ち込む毎日を過ごしました。その中で、自分の中に「(ある程度)特別にならなければならない」という意識があったようにも思います。なお、結果について母親はどう思っているかは分かりません(教育熱心だったことは今となっては感謝しておりますが、結果についてどう思っているかは知りたいとも思いません)。そのため、社会人になった後「自分は偉くなるんだ」「自分はこんなもので終わるわけにはいかない」等という「特別になりたい」意識が強い状態で、特に若いころは生きておりました。

一方、嫁さんの両親はどちらかというと毎日を淡々と過ごす感じの方々です。裕福ではないがまじめに働き、生活に困ることなく、旅行などの趣味もそれなりに楽しみ、老境に入られているようです。そのような家庭で育ったからか、嫁さんは私と異なり非常に穏やかな性格で、ほぼ怒ったことを見たことがありません。叱るのが苦手で、子供に対しても、世話が大変な幼児時期も「可愛い可愛い」と接していた為、子供たち3人ともゆったりとした性格に育っているようで、それはそれで別の心配はありますが、短気な私が育てるより良かったのだろう、と思っております。

この、嫁さんの両親を見ていると「平凡の偉大さ」というのを感じずにはいられないのです。普通に結婚し、普通に家庭を持ち、普通に子供を育て、普通に働きとおし、子供達は結婚し手を離れ、あとは自分たちの生活をできる範囲で楽しむ、という方々です。それぞれは普通のことであっても、現代においては難しいこともあり、普通のことを普通にし続けることがより困難な時代になっていると思われる今、「平凡であり続けること」は素晴らしいことだと、壮年と言われる年齢になって、私は思っております。

色々な先が見えてきた今、嫁さんの両親を見習い、今後は穏やかに、頑張るところは頑張りつつ決して無理はせず、人生を可能な範囲で楽しんでいきたい、平凡であることに誇りを持ち、平凡を精一杯謳歌しようと思っている今日この頃です。